自担よ、推し燃ゆを読むな。

題の通りです。

 

12/15発売のananにてHiHi Jets某メンバーが同書を読んだであろうテキストを受けまして、このようなブログを書く運びとなりました。

と言っても、読書家な自担が芥川賞を受賞し、「アイドル」という職業に触れているこの本を読んでいないことの方が考えにくいので、時すでに遅し、という感じは否めないのですが、もし万が一「推しが炎上した。ファンを殴ったらしい。」という文章を知らないのであれば、本屋さんで私のアイコンと同じイラストを見たら一目散に逃げて欲しい。間違っても購入なんかしないで欲しい。

 

 

私自身、この本への思い入れというのは並大抵ではないという自負があります。

 

「推しの見る世界を見たかった」

 

プロフィールに書いてあるこの一文を褒めていただくことが多いのですが、これもこの本の一節です。私のスタンスを表すのに1番ぴったりな言葉でした。

 

 

そう、私と主人公は「似ている」のです。

 

 

読んだ友人から「推し燃ゆ読んだんだけど、もゆちゃんの話かと思った!」ってLINEが来たし、私の部屋から勝手に読んだ母親には「もゆちゃんを見てるみたいで苦しかった」と言われました。

さすがに親に言われた時は、解釈一致どころの騒ぎじゃなくて1周回って笑いましたけど、世間からの主人公への評価が酷評だったので悲しい気持ちにもなりました。

概念的な部分だけでなく、環境だったり推しのいる世界、どこをとっても似ていて、これは私の自伝なのか?と思うほどでした。

 

 

ここからの「推し」は猪狩くんではなく、完全に「前世」の推しの話です。

 

 

彼女のことは、グループ発足当時から応援していました。ステージ上で孤独そうな彼女を分かってあげたい、という思いで、彼女の言葉、パフォーマンス、その全てを咀嚼しては彼女の考えを構築し、寄り添ってきたつもりでした。

彼女はグループ内でも常に出る杭で居続けており、世間からもファンからも攻撃され、何度も何度もネット上で火だるまになる姿を見ていました。その度に彼女も私も衰弱し、寄り添いたいという思いは加速、彼女と私は「同化」するようになっていきました。

段々と彼女の放つ「私なんか」という言葉を否定しなくなり、褒めてしまえば、認めてしまえばそれが最後になりそうな気がして、大好きな彼女のパフォーマンスを褒めることを辞めました。

歳を追うごとに同化は進み、彼女も私も限界を迎えていた年の大晦日。あのワンステージを「あぁ、最高傑作だ。」と思わず褒めてしまったあの日。そのパフォーマンスが彼女のアイドルとして最後のステージとなりました。

抜け殻となった私は藁をも掴む思いで同グループ内箱推しとなりますが、そのグループも解散。解散の理由は多くは語られず、ただ状況からして「彼女」のせいだと感じるファンも少なくありませんでした。

 

「推しのいない世界は余生だった」

主人公の言葉はこんなにも綺麗にこの感情を表現しましたが、私は解散ライブの日に「彼女たちと心中するんだ」と言い、その言葉通りに心が死にました。何を見ても感動しない日々が半年以上続きました。

CDラックをなぎ倒し、散らばったCDの山を見て、1つ1つに謝りながら拾い上げた記憶もあります。主人公が綿棒を拾い集めた時「遺骨を拾うかのように」というイメージが浮かんだ理由が痛い程に分かりました。

 

 

この「余生」から救ってくれた唯一の存在が「猪狩蒼弥」という存在でした。

今でなお、“前世”の記憶が蘇り、「彼女のいない世界で生きる価値などない」と涙を流す夜が往々にしてあるのですが、彼を見ている間“だけ”忘れることが出来るのです。

 

ただ、彼や周りの環境を見ていて、何処と無く前世に似ていると感じることも少なくありません。

皮肉なことに前世でも私は緑色のペンライトを降っていましたし、彼女たちは決してハッピーエンドとは呼べない結末を迎えた訳ですが、まさにその姿は「伝説」そのものでした。

この時、伝説を見る、ということがどういうことなのかを身をもって体験した気がします。伝説になるということは即ち、目の前から消え去り、星となることです。

 

どうか、どうかHiHi Jetsの結末は、前世とは違った形であって欲しいと願い、伝説になる日を恐れ、今日まで共に歩いてきた気がします。

 

 

いつか伝説を見ることになっても、また同化して苦しむことがないように、楽しむことと「解釈をしたい」という気持ちが共存できるように。

そんな自戒の意味を込めて、メンバーカラーでもなんでもない、あのピンクのイラストをアイコンにして、もゆちゃんとして生きています。

 

 

これ程までに強い思いがあるこの本、発売当初「推されている側はどういう感想を持つのだろう」というツイートを目にし、1度そちら側の意見も知りたいと思ったこともありました。

 

もし彼がこの本を読んだなら、「推しという概念は僕にもあるので、熱くなってしまう気持ちは分かります」などと薄っぺらい共感をされてしまうのだろうか。

「ここまで自分を犠牲にしなくてもいいんだよ」などと優しい言葉で私をやんわりと否定するのだろうか。

 

想像すればする程、怒りが湧いてきて、発売から1年が経った今、推されている側には絶対に知って欲しくない感情なんだなって理解が追いついてきました。

これ程までに自分を犠牲にして応援している人がいるということも、引退した推しの生活を確認して、「推しは人となった」とアイドルがヒトである事に落胆する生き物がいるということもを知って欲しくありません。

 

 

ヲタクって何処か息苦しさを抱えてペンライトを振っているんだと思います。でもそれが綺麗なのって、アイドル側はなにひとつその苦しさを知らないからなんだと思います。

 

もし既に綿棒を拾う主人公を知っていたとしても、その感想は自分の胸の中に閉まっておいてください。ソレを知ってしまったならば、私はあなたの輝きを純粋に受け入れられなくなりそうなきがしています。

 

 

 

はあ、でもよくよく考えたら、こちらはこれだけ勝手に分析をして、「推しの見る世界がみたい」だのほざいてる癖に、推されている側にこちら側の世界は1ミリたりとも見せたくないなんて、エゴの塊だなぁ〜、と思います。

まぁ結局、俺は俺だし私は私なので、こちら側の景色は見るなよ猪狩!というブログでした〜